雪国の歩き方

よく「東京で積雪何センチ」というニュースで、 横断歩道ですってんころりんと転んでいる会社員の映像が流れるときがある。
それを見て、雪国に住む人たちは「はははっ、そのくらいの雪で転ぶなんて、 都会人はこれだから」などと、妙な優越感を抱いたりする。(我が家だけかもしれないけれど)
「だいたい靴がなってないのよ。雪道対応の靴じゃないと。歩き方もそんなんじゃだめだめ」 なんて、知ったかぶって話している。
が、しかし。
東北育ちがみな決して雪道で滑らないのかと言えば、当然だが、そんなことはない。

私は雪道で滑ることが恐ろしくてたまらない。
雪が「積もっている」道というのは、実はたいして怖くない。
一歩一歩踏みしめて歩けば、滑ることはないのだ。
怖いのは、「氷が張った」冬道だ。
昼間気温が上昇して、前の晩や朝に積もった雪が溶け、 日が沈み再び気温が下がったときこそ、最も注意して歩かなければならない。
全面スケートリンク状態だ。
雪国の冬道を侮ってはいけない。
一瞬でも気を抜いては持っていかれる。
ふっと息を吐いた瞬間、両の足が虚空を蹴るなんてことはざらなのだ。

路上で滑って、そのまま道の真ん中にシュルシュルーと投げ出されてしまったら…!
もし運悪く、そのとき大型トラックが気づかずに突進してきたら…!
と、元来悲観的な私は、そんな妄想だけで外出が嫌になる。
道が凍結している日は本気で「今日は引きこもろう。仮病を使おう」と画策してしまう。
それでも出かけなくてはいけないときは、兜の緒を締めて歩き始めるのだが、 夜道でさらに一人歩きとあれば、恐怖極まれり。
恐ろしさのあまり泣きながら歩く23歳。
滑るのを警戒して腰はつねに引かれ、歩幅は通常時の3分の1。
これじゃあ「幼児歩き」と言われても無理はない。

雪道は心臓に悪い。
老人になったら、雪の降らない土地に住もう。
だって長生きしたいもん。
下唇を噛みながら、今年の冬もそう誓うのであった。

2004年2月16日

ハンサム隊士

今回も新撰組のお話。
興味のない人にはつまらないでしょうけど、ごめんなさい。

大河ドラマ『新選組!』には若くて男前の俳優たちがいっぱい出演しているので、 見ているだけで目の保養になります。
特にお気に入りなのは、山南敬助(堺雅人さん)
それはそれは、かっこいい。もうメロメロです。
柔和な物腰、美しい姿勢、穏やかな口調、優しげでいてときに鋭く光る眼差し…あぁ、胸キュン。
声も素敵で、画面に登場するだけで顔がにやけてしまう。
ことりちゃんには「大河ドラマを観て黄色い声を上げてる人を初めて見たよ」と冷ややかに言われています。
しかし山南敬助は最期、切腹してしまうのです。
悲しい…こんなハンサムさんなのに。
死なないでー。
ずっと生きてほしいのにー。

『新撰組血風録』を読んで思ったんだけど。
私は才子型に弱いようです。
なので、これから登場するだろう伊東甲子太郎にも惚れてしまうだろう。
でも彼も暗殺されちゃうんだよね。くすん。
これからもハンサム隊士たちの活躍を楽しみに過ごそう2004年。

2004年2月16日

はまり道

新撰組にお熱だということは以前から言っているが、今最もはまっている小説はやはり、司馬遼太郎著『新撰組血風録』だ。
このはまりようたるや、近年まれにみるどっぷり度なのだ。

私は小説をあまり読まない。読めない。
隙間の少ない活字を読むのに慣れていないのだ。
今までの人生を振り返っても、一番読書をしていた時期は小〜中学生の頃であろう。
学校の図書館に置いてある、字の大きい絵本のような本ばかりであったが、 当時は周りから話しかけられても全く気づかないくらい、 本の世界に没頭するような「読書少女」であった。

それがいつの頃からか、私の日常から「小説を読む」という時間がなくなっていた。
気合を入れないと読めなくなってしまった。
なんというか、紙媒体に重量さを感じていたのだ。
そしてすっかり文章を読んで、想像をするという作業がおっくうになっていた。
友人に「新撰組が好きなら『新撰組血風録』を読めばいいよ」と勧められたときも、 最初は渋っていた。
「いやいや、現代語の小説でも面倒になるのに、時代小説なんて読めませんよ」と。
しかし、「司馬遼太郎は違うんだってば」と言う友人の言葉を信じて、どれと手に取ってみた。

すごい。すごくおもしろい。
ぐんぐん文章が映像になって、頭の中で登場人物が動き回るのだ。
これが文章力というものなのかしら。
クセがあったり回りくどかったりせずに、非常に読みやすい文章で、物語に引きこまれる。
これで活字離れも治ればいいなと願う今日この頃。
あぁ、人を信じてよかった。
ありがとう、友よ。ありがとう、司馬遼太郎。ありがとう、新撰組。
このはまり道からはまだ当分、抜けられないと思う。

2004年2月13日

眠れる森の歌人

短歌を詠むときの姿勢について。
ここでいう「姿勢」とは、心構えや態度といった意味ではなく、身体の格好のこと。
私がよく試みるのは、横になり目を閉じてみることだ。

連作を詠むときはまず、「よし!つくるぞ」と構えて机の上にノートを開き、 頭の中でストーリーをもこもこと広げていく。
手元には必ず辞書を置いておく。できれば2冊。
これは、はじめに思いついた単語の意味を確認するという目的と、 その単語よりももっと適した類似語がないか探すためだ。
考えが行き詰ったときに辞書をペラペラめくって、 つれづれに語句を眺めるのも案外いい気分転換になり、脱出の光が見つかったりするものだ。

それでもなかなか納得のいく短歌ができないときは、もう寝てしまう。
制作の頭のままで横になって、「夢うつつの境」で詠むのだ。
だから思いついたときは体が半分寝ていて、起き上がることができないので、 枕元にノートを置いたり、携帯電話に打ち込んだりしている。
夢への入り口に創作の泉がひそんでいるとは。
アルファ波に揺られて短歌を詠む…実に心地よい作業だ。
問題は、その泉に気づく前に本気で寝てしまうこと、ただひとつである。

2004年2月5日

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2004年02月


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