毛だらけの

佐藤家の愛犬チョコタンは、メスのミニチュアダックスフントだ。
今年の7月で5歳になった。人間で言うと、36歳くらい。
もう子どもではないが、チョコは変わらず、我が家の末っ子ちゃんだ。
それはもう、べらぼうに愛されている。
こんなに愛らしく美人の犬はそうそういない、といつも家族で言い合っている。

ダックスフントは社交性のない犬種だと言われている。
「チョコー、チョコー、こっちへおいでー」といくら呼んでも、本人(犬)にその気がなければまるっきり無視を決め込む。
逆に撫でてほしいときは、とてっと横になり、こちらをその愛くるしいアーモンド型の瞳で見つめ(いっそ睨んで)、 んーと喉で低くうなりながら、しっぽをパタパタと床に打ちつける。
しかし妥協はしない。
もっと撫でてもらいやすい場所まで近づいてくればいいものを、なぜか毎回、微妙に人から離れた場所に横たわるのだ、彼女は。
一種、魔性の女だ。小悪魔。

チョコタンは様々な異名を持っている。
「伏せ」をしている姿を上から見た形状から、「ツチノコちゃん」
本名からの連想で「チョコチップ」や、体毛の色合いから「かりんとう」
もしくは、そのまま「毛」とか。
そして、それらニックネームのなかで最も異彩を放っているのは、「天照大神」である。
この名で呼ぶのはいつかと言うと、チョコタンがレースのカーテンの後ろに隠れたときだ。
チョコタンは一日に必ず一度はカーテンの後ろに入っていき、そこに座り込む。
御簾の向こうに鎮座する女帝のようである。
そしてしばらくすると、何事もなかったかのような顔をして、するするとカーテンから出てくる。
そのとき「まるで天岩戸の神話のようだ」と言って生まれたのが、この呼び名なのである。

さて、ここで明記しておかなくてはならない。
我が家ではきちんとしつけもしています。
甘やかしてばかりではない。
あの短い短い前脚で「お手」と「おかわり」をする姿の実に健気なこと。
「待て」を言い渡されて、早くしてよとせがむうなり声の低く野太いこと。
あぁ、可愛らしい愛犬よ。
しかし、こんなに毛だらけの天照大神なんていいのだろうか。
横顔は相変わらず、美女犬だ。

2004年9月28日

憧れの名字

前回、「佐藤」姓が好きだというお話をした。
しかしそれでも、憧れの名字というものもある。
それは、猛々しい名字である。
たとえば「鬼頭さん」
鬼の、頭…なんてかっこいいんだろう。
あとは濁点がつくと、なんとなく強いイメージがする。
たとえば「鬼瓦さん」
鬼の瓦だもんなぁ。鬼面の形の瓦、本当にかっこいい。
(鬼瓦についてちょっと見てみようと思って、検索して出てきた瓦屋さんのキャッチコピー「瓦の未来、考えます」に、胸がキュンとした。)
他にも素敵だと思う名字は「首藤さん」
首、という言葉の持つ生々しさ。
「シュトウ」音の響きもいい。
一瞬、「手刀」と聞き間違うのもいい。

ただ、名字に具体的イメージが喚起させる単語が含まれていると、ファーストネームとの兼ね合いが難しくなるのでは、とも思う。
私の名前が「鬼頭羽美」であったら、鬼の頭と羽がケンカするという感覚である。
なので、名字としてポピュラーな「佐藤」でよかったと思う。
佐藤と聞いて、藤の花を想像する人はあまりいないだろうから。
(ちなみに私は、藤の花の香りが大好きだ。5月の運動会の季節になると、母校の小学校の校庭にそれは見事に咲いていた)

しかし、なんだ。私の憧れは「鬼」が基点なのか。
「鬼」と聞いて私の頭に浮かぶのは、決してラムちゃんではなく、日本昔話に出てくるほんわかした鬼でもなく、 村人を喰らうような筋骨隆々の残酷で凶暴で恐ろしい鬼。
私はそんな鬼になりたいってこと?きゃあー。

2004年9月21日

私の名字

佐藤…実にポピュラーな名字だ。
たまに友人に「そういや、佐藤っていったっけね、君」なんて言われる。
そんな平凡な名字だったね、と。
「佐藤さん」の人口が多いだけで、その名字の持つ存在感までも薄くなってしまうのだろうか。
これは由々しき問題である。

私は「佐藤」姓が好きだ。
「佐」もいいし、「藤」もいいし、そのふたつが繋がるとこれまたいい。
それは漢字の密度がちょうどいいからだ。
見てのとおり、「藤」は画数が多くて密集しており、余白が少ない。
一方、「佐」はマス全体的に線が配置され、ほどよく余白が散らばっている形になっている。
このふたつが並ぶことによって、視覚的に実に快適な名字になっていると思う。
(「佐」の部分に入る漢字が、「一・二・三」並みに余白が多いものであれば、私の望む密度のバランスが崩れてしまう。)

書くときのみならず、音としても、「サトウ」は私の希望どおりだ。
三文字で、そして最後の音が伸びる形。
伸びるというところに、音の優しさを感じる。
「○藤」の中でも、私は「佐藤」が一番気に入っている。
サ行音も好きなのだなと思う。
願わくば、結婚しても夫婦別姓で生きていきたい。
もしくは「佐藤さん」と結婚したい。
そのくらいの愛着度なのだ。

しかし、私はそのポピュラーさゆえ、周囲の人々にあまり名字で呼ばれて生活してこなかった。
友達や知り合いはもちろん、学校でも他に「佐藤さん」が複数人いたので、ほとんど下の名前で呼ばれていた。
なので、病院などで「佐藤さーん」と呼ばれても、一瞬気づかないのだ。
一瞬どころか、三度目くらいにフルネームで呼ばれるまで、我関せずの表情で雑誌をめくっているときもある。
散々、佐藤姓に対する愛情を語ってきてなんだが、ファーストネームほどには「佐藤」に アイデンティティーを感じていないということなのか…あれれ。
いやいや、でも、佐藤として生まれてとても幸運だと思っているのは確かなことなのだ。

2004年9月17日

文語と口語

今年新春に立てた「短歌目標」のひとつに、「文語体についてもっと勉強しよう」というのがある。
とは言っても、せいぜい高校の頃に古典の授業で使っていた古語辞典を開いて、助動詞の表などの見渡すくらいしかしていないのだけれど。
あぁ、それにしても難しい。
普段から文語体で短歌を詠んでいる方は、どんな思考回路をたどって言葉を選択していっているのだろうか。
意味と音の響きと整合性と…と、いろいろなことを考えているうちに、頭の中がぐらんぐらんしてきて、もう何がなんだかわからなくなる。
「ぬ」だろうが「つ」だろうが、いっそ「り」でも「き」でもいいのではないかと、沈んだルビー色の紅茶を飲み干してみたり。

私は2年前から短歌をつくり始めたのだが、そのキッカケは、俵万智さんの『サラダ記念日』を読んだことだった。
なので、私の当初の短歌は、俵さんくらいの文語率に倣っていたように思う。
そもそも、短歌についてまったくの未経験者(詠むのも読むのも)だったので、口語も文語もよくわかっていなかったのだ。
「吾」なんて使っちゃって。
今から見れば、なんだか背伸びをしているようで恥ずかしくなる。

それが1年経った昨年からは、もうすっかり文語は抜けて、完全に口語体で短歌をつくるようになっていた。
これは何か考えてのことではなく、本当に「気づいたらそうなっていた」という状況だった。
インターネットや書籍などを通じて、話し言葉のような短歌に触れる機会が増えたためだと思う。
それでとくに不自由を感じることもなく口語体で詠んできたのだが。

今年に入ってから、文語にしか表現できない(または、文語体のほうが合う)詩的世界があると感じるようになった。
ひとつの単語からの方向でも、「匂い」を「匂ひ」と表記したいな、と思ったとき、それに合わせて全体を文語体にしなくてはならない。
そうすると、やっぱり勉強しなくては、と思いを新たにするのだ。
「読む」場面においても、文語体だと、フィルターに何枚も包まれているように感じてしまい、それはなんてもったいないことかと思う。
今はまだ勉強不足だが、これから少しずつでも読解できるように、語彙を増やせるように、学んでいこう。
口語体には口語体の、文語体には文語体の、それぞれの持ち味があるのだとわかったこと、 それが私の短歌生活3年目の収穫なのだ。

2004年9月12日

ちゃん坊

私には3歳下のかっこいい弟がいる。
姉の目から見て言うのもなんだが、なかなかハンサムで知的な雰囲気をまとった青年だ。
友達に見せてもそう言ってくれるので、多分、正しい認識だと思う。

私はたまに彼のことを「ちゃん坊」とか「ちゃんくん」と呼ぶ。
もともと「○○ちゃん」と呼んでいたのが、名前の部分が省略されて「ちゃん」だけが残り、 それをより丁寧に呼びかける際に、「くん」付けとなった結果が、接尾語+接尾語という、 てんで意味不明なニックネームになってしまった。
アイデンティティーの欠片も残っていない。
もしくは、「チャン」という名のアジアの少年だと錯覚しているのかもしれない。
「おい、チャン君や」

さて、何度か言ってきたのだが、私と弟は基本的に性が合わない。
波長のリズムがやたらとかみ合わないのだ。
私が苛立っているときに弟はかまってもらいたがったり、逆に弟が人に触れられたくないと思っているときに、 私がべたついていきたくなったりする。
なので、いつも衝突している。
顔を合わせている時間の3分の1は、それぞれ「こいつ、気に入らないな」と感じて生活していると思う。
よく一緒にドライブもするのだが、一度車内で大ゲンカをして、運転席と助手席とでチョコボールを投げつけあったことがあった。
お互いの地雷となる言葉を、ほとんど無意識に、お互い口にしてしまうのだ。
でも、仲は良い。
私は弟をとても可愛いと思っているし、弟は飲み会で帰宅が0時過ぎるようなときは私だけに (お兄ちゃんや妹にではなく)連絡をよこす。

血の繋がりとはそういうものだ、と思う。
たとえ「ちゃんくん」が恋の相談を妹ばかりにして、私には秘密にしていても。
お姉ちゃんは拗ねたりしないよ。

2004年9月3日

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2004年09月


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