037:愛嬌

[22797]久野はすみさん

あれは五月、花咲く庭に立ち尽くす愛嬌のないむすめであった

まるで物語の導入のようなはじまりが情緒的で美しいです。
草花や土の匂い、五月の空や風を感じさせる舞台設定。
「愛嬌のないむすめ」だったのは、はたして作中主体自身だったのでしょうか。
それとも、物語の登場人物のひとりなのか。
初句、字余りにしてまでも「五月」を選択したのは、それだけの必然性があったからでしょう。
そして読み手にとっても、やはり「五月」でなくてはならない歌と受け止められるのです。

 

[21175]兵庫ユカさん

あのひとはおとなわたしの愛嬌のまだらもようを楽しんで見る

「愛嬌のまだらもよう」というのは、「わたし」に愛嬌がある場面/ない場面がそれぞれあることを意味している表現だと捉えました。
「あのひとはおとな」だから、そんな「わたし」の様子にいちいち惑わされることなく、楽しんでいるかのように接してくる。
作中主体もまた、そう見られることになんだか安心しているようにも感じられます。
「まだらもよう」の不均等さやいびつさが、愛嬌の形容詞として巧みだと思います。

 

[14495]岡村知昭さん

愛嬌のないわたしから愛嬌のある君にいまパンを送るよ

なぜ、ここで「パン」なのか。
とても「愛嬌」のある歌になっています。
「愛嬌のないわたし」と「愛嬌のある君」という単純で明確な対比が、一首にユーモア性をもたらしています。
パンは、どんなパンなのでしょう。
クリームパン?アンパン?ジャムパン?
どちらにしろ、掌にちょうど乗るくらいの大きさのパンだと想像します。

 

[7818]大辻隆弘さん

愛嬌のない少年とひややかな教室にゐた、ずつと黙つて

芸術性の高い、インディーズ邦画のワンシーンのような一首。
曇りの日の夕方を想像しました。
徐々に薄暗くなっていく教室、ふたりきりの閉鎖的な空間。
少年といることによって、「ひややかな教室」はよりひややかに、沈黙の時間はより長く、 閉じ込められたような感覚はより強く、作中主体には感じられたでしょう。
下句で用いられた倒置法が、舞台の雰囲気を効果的に作り上げていると思います。

 

[686]しんくわさん

愛嬌のない牛である。君たちは。もちろん君も。君も。僕もだ

うーん、わからない…私たちは牛なのか、しかも愛嬌のない。
「君も。」「君も。」と周りの人々を指差しながら、この「僕」は一体どんな了見で人間を牛だとたとえているのでしょうか。
いや、本当に牛に見えている?
羊や猿や犬ではなく、牛という選択は意外性があり面白いです。
また、句点の多用により、実際に「僕」がそう発言しているように感じさせ、さらに一句一句が強調されるため、 妙に確信めいて聞こえてくるのです。

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