佐藤ことり作品(平成28年度)

爽やかなインクの匂いかぎながらゆっくり開ける初版の扉

【評】
瑞々しい一首。
新しい物語や知識に触れるときの胸の高鳴りを伝えている。
誰しもが経験したことがあるであろう感覚を、真新しいインクの匂いという嗅覚に集約した点が成功している。
結句の「扉」という比喩が、今まさに物語の世界へ分け入っていこうとしている瞬間をうまく表現している。

 

自転車が右に左に影つくり暑い昼間に登り切る坂

【評】
若々しい勢いのある一首。
「右に左に影つくり」という表現で、どれほどの勾配の坂であるかが想像される。
季節は明記されていないが、きっと夏の盛りであろう。
そして、作者は青春を生きている。
自転車と作者の影は、白雲を抱く青空を背景に、坂道に濃くくっきりと落とされているのだ。

 

青空にあなたの乗った飛行機のあとを追いかけ一本の雲

【評】
清清しい相聞歌となった。
恋愛をテーマとした歌では、作者の内面の熱量が打ち出されることが多いが、この一首では飛行機雲に恋心が仮託されており、一読、爽やかな印象を残す。
飛行機のあとをまっすぐに伸びる飛行機雲は、そのまま、二人の関係性の率直さを表しているのだろう。


 


佐藤ことり自選二十五首

滝を背に若葉と同じ色あいのワンピースからこぼれる光

爽やかなインクの匂いかぎながらゆっくり開ける初版の扉

折り紙の白鯨たちが泳ぎ出し初夏の窓辺が太平洋に

自転車が右に左に影つくり暑い昼間に登り切る坂

雨よりもゆっくりおりる初雪が染み込んでゆくアスファルトへと

結露した窓の向こうに不揃いの背比べした雪だるま達

くちずさむ昭和の唄とぼた雪をつれて深夜のコンビニへゆく

それぞれに別れを告げる少女らのここは始まり 駅の階段

単語帳ペラペラめくる少年を次の街へと電車が運ぶ

歓声の上がる試合を教室の窓から見てる板書もせずに

ゴーゴーといつまでも鳴る耳の奥プール上がりの英語の授業

夢の中セーラー服の袖口にチョークをつけて数式を解く

どうしても第二ボタンと言えなくて代わりにもらう袖のボタンを

図書館の本に隠れて先輩と交わした約束果たされぬまま

同じ月見ているはずの二人でも明日には別の光を浴びる

青空にあなたの乗った飛行機のあとを追いかけ一本の雲

すれ違う見知らぬ人の残り香は熱を帯びつつ彼の姿へ

関係を断ち切りたくてスマホから削除していく彼の存在

留守電に残るあなたの「おやすみ」の声に巻かれて今夜は寝よう

紙切れを一枚出したその日からただの指輪が妻の証へ

足元の水たまりさえ怖くなり青になっても渡れずにいる

パソコンの画面に映る文字列はとぐろを巻いた大蛇のように

どうしてと問いかける気も起きなくて沈めて帰るタイムカードを

アラームに急き立てられて結界を抜け出すように扉をくぐる

19時まで小さな箱に入れられて私はきょうもパソコンを打つ
                   19時(ルビ:しちじ)

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佐藤ことり

堀 恵

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