平安女史 1

霧雨を纏った和泉式部

とそっと手渡す交換日記



夏の終わりの月曜日、朝。
七組の学級副委員長シオちゃんは、うつむきながら通学路を歩いていた。
彼女の気持ちが沈んでいたのではない。
うつむきがちになるのは、幼い頃からの彼女の癖だった。
爪先の前方五十センチの地点を見て歩くのが好きなのだ。
この時期、路面はしっとりと落ち着き始めて好ましい上に、時々マーマレード色に美しく光りもするので、目が離せなかった。
雨上がりの今朝の空には淡い虹が浮き出ていたが、シオちゃんにはまったく興味のないことだった。
すんすんと歩いていれば、あっという間に学校へたどり着く。

漆喰をべちゃりと塗られた校門のゲートをくぐるときもやっぱり、シオちゃんはうつむいていた。
昇降口を目指して歩き続けていると、ふいに湿った匂いが流れてきた。
霧雨の、匂い。
シオちゃんはやっと顔を上げ、校舎脇の花壇へ目をやった。
花壇の中には、いつものとおり、あの人がいた。
「和泉式部さん」
シオちゃんは小声でそう呼ぶと、早足でかけ寄っていった。

校舎脇の花壇にはなぜか花がひとつも植えられておらず、深緑色やら青緑色やら黄緑色の雑草ばかりがぼうぼうと伸びている。
園芸部も美化委員も、用務員のおじさんも校長先生もみんな、そこが花壇であるということを忘れているようだった。
和泉式部さんは、その花壇からは一歩も出ることができない、と言った。

シオちゃんと和泉式部さんは、交換日記をしている。
日記帳はシオちゃんが用意した、ごく一般的なキャンパスノートであったが、表紙や裏表紙には、 雑誌から切り抜いた齧歯類の写真が何枚も糊で貼りつけられていた。
シオちゃんは、齧歯類なら何でも好きなのだ。
また、齧歯類たちの隙間には、金紙や銀紙の折り紙や、色とりどりの千代紙の切れ端がくっついている。
糊でばいんばいんのそんな交換日記を、和泉式部さんもたいへん気に入っていた。

和泉式部さんは、むかし好きだった男の人のことなどをよく書いてよこした。
彼らのどんな仕草が好きだったか、などといったことを挿絵つきで書いてくれるので、 和泉式部さんのぐにゃぐにゃの文字をうまく解読できないシオちゃんでもとても楽しく読むことができた。
ほかにも、彼らと出会った日の天気だとか、お別れの夜に着ていた着物の色や柄だとか、和泉式部さんは細かいところまで本当によく覚えている。
シオちゃんにはまだ恋愛経験がないので、代わりに歌謡曲の歌詞を書いていった。
それは和泉式部さんの要望だった。

和泉式部さんはいつも、まずその歌詞を丹念に黙読した。
その間、シオちゃんは、和泉式部さんの伏せられた睫毛がふるえる様子や、瞼が時折ぴくりと小さく痙攣するのを、横からじっと見つめるのだった。
歌詞を読み終えた後は、ふたりで声をそろえて朗読する。
とくに気に入った歌があれば、和泉式部さんはそのページを手で破り取り、花壇の土の中に埋めた。
何のために埋めるのかとシオちゃんは聞いたことがあったが、和泉式部さんは少し頭を傾げて微笑んだだけで、答えを言ってはくれなかった。

この朝も、和泉式部さんは霧雨の匂いをさせて花壇の内側に立っていた。
いつものように、足元はぼうぼうと生えた雑草に隠されている。
シオちゃんは知らない。
和泉式部さんは、もしかしたら知っているのかもしれない。
土の中には、ちょうど千篇の歌が埋められていることを。
一千枚のノートの断片。
そしてその下には、五体分の白骨が溶けずにうずくまっている。
シオちゃんは知らない。
和泉式部さんは知っていたのに、覚えていないのかもしれない。
その骨は、二百年前のシオちゃん。
その横には、四百年前のシオちゃん、六百年前のシオちゃん、八百年前のシオちゃん、そして千年前のシオちゃんは ――
「和泉式部さん」
シオちゃんは手提げかばんから交換日記を取り出して、和泉式部さんに手渡した。
きれいなきれいな指だった。

今夜も、千篇の歌は静かにほどけて、土に染み渡り、青白い骨たちに巻きつくだろう。
ぶわんとした毛布のような雲に邪魔されて、月も星も声を潜める暗がりの下。

>>

    和泉式部
    紫式部
    清少納言

    …back


© Umi Sato All Rights Reserved.