平安女史 2

教卓の蔭にカエルが潜み

けり紫式部の幽霊として



国語教師のシャルル先生(日本人)は、とても愛らしい容姿をしていた。
肌の色は白く、いつもつるつるで瑞々しかった。
ふにゃふにゃとよく笑う女の人で、笑うたびにまろみのある頬が薄桃色に染まった。

「シャルルちゃん」というあだ名は学生時代に友人につけられたもので、それがどういったわけか、赴任してたった五日間で、生徒たちに知れ渡っていた。
いまでは授業を受け持っていない学年の生徒や、校長先生を始めとした教員全員、はては生徒の父兄までもが、彼女のことを「シャルル先生」と呼ぶのであった。

木曜日、四時限目。
その出来事は、三組での国語の授業の最中に起こった。
教科書を朗読しながら、生徒たちの机のあいだをゆったりとすり抜け、教卓まで戻ってきたそのとき、シャルル先生は異変に気がついた。
木製の教卓がチョークの粉にまみれていたのである。
朗読を始める前、つい数分前までは何もなかったのに。
白色、黄色、赤色、青色、そしてほんの少し緑色のチョークの粉が、混ざってしまいもせずに、うまく撒き散らかされている。
教卓の上にも側面にも、どこもかしこも。
まるで、シニャックの点描画のようだった。
いったい、いつの間に。
シャルル先生は三組の生徒たちを見渡し、彼らと頷きあった。
また、あの美しいカエルが現れたのだ。

シャルル先生はゆっくりしゃがむと、そっと教卓の中を覗いた。
やはり、薄暗い蔭の中に小さなカエルがはりついていた。
カエルは、紫式部であった。
紫式部の生まれ変わりの生まれ変わりの生まれ変わりの、とにかく、いまもどうやら紫式部のようだった。
カエルはつややかな藍色をしていて、光に背中を反射させるとなぜだか虹色に輝いて、たいそう美しかった。
「紫式部」なのだから、紫色でもいいものなのに、とシャルル先生はこっそりと思ったりもしていた。

紫式部は、カエルとなったいまでも、源氏物語の続きを書き続けていた。
現在、三千八百四帖目が完成している。
カエルの指で、どうやって文字を書いているのかは疑問だが、たしかに作品は綴られ、夜の職員室に届けられる。
紙は、教卓の中にしまわれているプリントの裏紙を使っていた。
「源氏物語・最新帖」は国語教員の清瀧先生が現代語訳にした後、職員室で回し読みされ、さらに生徒へも希望者にはコピーが配られた。
原文はきれいに製本され(プリントの裏紙ではあったが)、校長室の金庫ロッカーに厳重に保管されている。

今日のように、教卓がチョークまみれになるときは、紫式部が作品の感想を求めている印である。
作品を仕上げた後、紫式部は決まって、一週間以内にこうして感想を要求してくるのだった。
文体から感じるよりも、もしかしたらずっと自尊心の強い人(カエル)なのかもしれない、とシャルル先生は考えている。

シャルル先生が再び、三組の生徒たちを見渡した。
この組にも、源氏物語の読者がいたはずだ。
ふたりの女子生徒が手を挙げ、机の中から原稿用紙を取り出し、教卓までやってきた。
彼女たちは前もって、感想作文を書いてきていたようだ。
シャルル先生も急いで、名簿に挟んであった原稿用紙五枚を取り出した。
この学校の国語教師は全員、源氏物語のファンなのだ。
シャルル先生は女子生徒から作文を受け取ると、自分の分と合わせて、教卓の中の棚に差し入れた。
これで夜には、カエルがどこかへ持っていくだろう。
ふと目を向けると、カエルがこちらを見つめていた。
肌と同じように深い藍色の目をつるんとさせて。

シャルル先生は、いまなら紫式部と話ができるかもしれない、と思った。
紫式部の声を聞いたことがあるのは、校長先生だけだった。
しかもそれは、カエルの前世だか前々世だかの姿(たしか土鳩だったと聞いた)のときで、校長先生も校長ではなく、この学校の教育実習生だったらしい。
たった一度、それも二言三言だったが、紫式部の声はまるで瑪瑙のようにこってりと滑らかだったと、校長先生は言っていた。
美しいカエルは、教卓の蔭にぴたりとくっついたまま、まだこちらを見ていた。

シャルル先生が桜色の形よい唇を動かそうとしたそのとき、四時限目の終了を告げる校内放送が ――
「桐壺、帚木、空蝉、夕顔の時間が終わりました。次は若紫、若紫です」

>>

    和泉式部
    紫式部
    清少納言

    …back


© Umi Sato All Rights Reserved.