平安女史 3

黒板に青いチョークで平仮

名を書き始めたる清少納言



福太郎は、この学校の用務員をしている。
彼はインド人のような顔立ちをしており、生徒たちの間では、やれ「ごはんはカレーとナンしか食べない」だの、 やれ「休日にターバンを巻いて商店街を歩いていた」だの、おかしな噂がいくつも広まっていた。
年齢も見た目からははかりにくく、二十歳代後半説から六十歳過ぎ説まであった。
実際の福太郎は真面目で勤勉で、そのためよく日に焼けた、実家住まいの三十七歳の日本人である。

この日、福太郎は一年三組の教室へと、掃除道具を手に向かっていた。
チョークまみれになった教卓の清掃のためである。
おかしなことに、この学校では時々、教卓が色とりどりのチョークで汚されるいたずらが繰り返されているのだ。
まったく困ったものだ、と福太郎は鼻から太い息を吐きながら、放課後の廊下を歩いていた。

清掃が終わり、用務員室へと帰る途中、視聴覚室の前を通った。
すると、中に誰かいる気配がする。
授業終了後、視聴覚室には鍵をかける決まりになっているのに、一体誰が入り込んだのだ、と福太郎は訝しがってドアを開けた。
そこには、着物姿(としか福太郎には表現できなかった)の女の人が、真っ直ぐに立っていた。
そしてじっとこちらを見つめた後、机を指差した。
そこに座れ、ということらしい。
福太郎の体は指示されるままに、席へとついていた。

放課後の視聴覚室には、清少納言の幽霊が出るらしい、と福太郎は聞いたことがある。
どこかでは紫式部の幽霊も(なんとこちらはカエルの姿をしているらしい)出るという噂もあったが、それは嘘だと福太郎は思っている。

その女の人は、カツカツと音を立てながら、青いチョークで紐のようなひらがな文字らしきものを黒板に書き始めた。
とても丁寧で端整な流線だった。
彼女はくるりと振り向いて、福太郎に微笑んだ。
それから、早口で手に持った書物の朗読を始めた。
あまりに早口で、福太郎には何を言っているのか聞き取ることができなかった。
もしかしたら、日本語ではないのかもしれない、と思った。
彼女は朗読をしながら、時折、福太郎のほうへ目をやり、こくこくと何度か頷いたりもした。
福太郎はしばらくあっけにとられていたが、ようやく落ち着きを取り戻し、彼女の顔を観察してみた。

黒みがちの目はほんのちょっと寄っていて、目尻がやや切れ上がっていた。
鼻筋はすっと整って、こぶりな鼻をしている。
唇はよく動くが、歯が見えないつくりのようだった。
上唇が下唇よりもやや厚めで、美しいアーチを描いている。
顎のラインは鋭く、福太郎は聡明な印象を受けた。
長い長い髪の毛は、教室の窓から差し込む夕日に透けるかのように、ふいにキャラメル色に波打った。

本当に、この人は清少納言の幽霊なのかもしれない、と福太郎は思ったが、恐ろしさはまったく感じなかった。
人間業ではないほどの早口で、まるでカセットテープを早送りしているような声だったが、 何を言っているのかちゃんと聞きたい、と身を乗り出して、彼女の顔を改めて見つめた。
美人の類に入る、と思った。
こうして、夕日がお山の向こうへ消えるまで、彼女の「講演」は続いた。

視聴覚室がどろんと夜の入り口に差し掛かったとき、しゃべり終えた彼女はふうと小さく息を吐くと、実に満足そうに微笑んだ。
そして、ゆっくりとした動作で、ドアを指差した。
思わず福太郎もそちらを見た次の瞬間、彼女は消えていた。
青いチョークも消えていた。
窓の外では、楓の木が枝葉を揺らしている。
彼女が何を話していたのか、何を書いていたのか、結局、福太郎には何一つわからなかった。
けれど、福太郎はなんだかとても清々しい気持ちになっていた。
旅にでも行こうか、と思った。
有給休暇がだいぶたまっているはずだ。
春はあけぼの、夏もあけぼの、春夏秋冬あけぼのなのだ、めでたいじゃないか。
福太郎はそうひとりごちると、ぎゅうっと背伸びをして、掃除用のバケツを手に、視聴覚室を後にした。
黒板には、幾筋もの青い文字が残されたまま。

福太郎がインドへ帰ったらしい、という噂が生徒たちの間で広まるのは、それから一週間後のことである。

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