午後三時のオフィスには、まるで透明のインコが飛び交っているようだ。
仕事の手を動かしながらも、大脳皮質の数箇所がほわりほわりと鈍くなっている。
それはきっと、透明インコの抜け落ちた羽毛が、 次々と容赦なく耳の穴から入り込んでしまったからだ。
焙煎珈琲飴を一粒、口に放り込みながら、綿井さんはいつもそんなことを考える。
そう言えば、と綿井さんは、ズボンの裾からのぞいている自分の足首を見下ろした。
今日は、幾何学模様のヘンテコな靴下を履いてきてしまった。

初句を忘れた綿井さん/第一話

透明インコの羽毛が、コンピュータやら書類ファイルやら焙煎珈琲飴の袋やら、 デスクの上のあらゆるものを埋め尽くしていくなか、綿井さんは短歌をつくる。
綿井さんは短歌をつくるのが好きだ。
いつ短歌の世界を知ったのか、気がついたら、短歌をつくるようになっていた。
親友一人(名前は衣笠)、配偶者扶養者ともになし、スポーツジム通い六ヶ月の綿井さんにとって、短歌は唯一の趣味と言えるものだった。
スポーツジムでの運動は、自分に課した「継続業務」であって、趣味ではなかった。
五音七音の言葉を探すことは純粋に楽しい、と綿井さんは思っている。
けれど大きな問題が、つねに綿井さんの作歌生活に張り付いていた。
綿井さんは、初句を忘れてしまったのだ。

いつ短歌をつくるようになったのか分からないのと同じように、いつどのようにして初句を忘れてしまったのか分からない。
よし一首できた、と思っても、見ると初句がすっぽり抜けているのだ。
初句以降の第二句から結句まではきちんと忘れずに書かれているのに、初句だけが空白のままになっている。
いつだってそうだった。
短歌をつくっている最中は、初句の存在そのものを忘れてしまっているようだった。
もちろん、綿井さんは、短歌は五七五七七の五句体だということはちゃんと分かっている。
むかしは、初句も忘れずにつくっていたはずだ。
綿井さん本人にだって不思議なことだったけれども、今ではもう、初句の抜けた短歌にもすっかり慣れてしまった。

この日も、綿井さんの短歌には初句が忘れられていた。
綿井さんは、焙煎珈琲飴をまた一粒、口に入れた。
今日はどれにしようか、と考えている。
綿井さんは、あらかじめ三種類の初句を用意している。
ありがとう」 「さようなら」 「こんにちは」の三つだ。
一つずつ、できた短歌にあてはめていく。

ありがとう回覧板は次々と草冠の漢字で埋まる

さようなら回覧板は次々と草冠の漢字で埋まる

こんにちは回覧板は次々と草冠の漢字で埋まる

きっかり五分間考えた後、綿井さんは「ありがとう回覧板は次々と草冠の漢字で埋まる」を選んだ。
その間、綿井さんの奥歯は、焙煎珈琲飴を粉々に砕いていた。

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