綿井さんは、小さな株式会社で経理の仕事をしている。
勤続十三年になる。
青色や白色やライトグリーン色の歯磨き粉を練る会社だ。
住宅街のはずれに、小さな工場と小さな事務室を構えている。
綿井さんはもっぱら事務室にいて、書類を揃えたり、電話の応対をしたり、飴を舐めたり、お茶を汲んだりして過ごしている。
工場からは、歯磨き粉を練る時の、ぎゃわむぎゃわむという音が低く響いてくるのだが、 歯磨き粉の爽やかな香りのせいか、周囲の住民から苦情を言われることはほとんどなかった。
今朝は、綿井さんが朝礼の掛け声をする順番だった。

初句を忘れた綿井さん/第二話

前に進み出て、同僚達を見渡す。
逆光で、同僚達の顔がどれもこれも薄暗い霞に埋もれていた。
先頭を切って、社訓を唱える。
丹念に練ります
綿井さんの後に続いて、社員全員が唱える。
丹念に練ります
綿井さんは、ちらりと窓の外に目をやった。
丹念に練ります
今日は本当に青葉が美しい。
丹念に練ります
すべての社員の胸元に、会社のマスコットキャラクターであるミント工場長の姿をかたどったバッジがつけられている。
丹念に練ります
オフィスにひしめくミント工場長の群。
丹念に練ります

今日、三杯目の紅茶を注ぎながら、綿井さんは考える。
果たして、ミント工場長は、我が社の真の工場長なのだろうか。
「工場長」という役目の人物は、綿井さんの会社にはいなかった。
ミント工場長はどの地位に位置しているのか。
アライ社長よりは下だろう、ではハセガワ専務との間くらいか。
綿井さんの手のなかにある紅茶茶碗には、ミント工場長がプリントされている。
社長と専務のお手製だった。
綿井さんは、ミント工場長の絵を初めて目にした時から、シロナマズのようだ、と思っていた。

さて、今日はどの初句を選ぼうか。
紅茶茶碗の丸っこい縁に唇をあてて、綿井さんは 「ありがとう」 「さようなら」 「こんにちは」を一つずつ、できた短歌にあてはめていく。
向こうでは、ハセガワ専務が電話で奥さんに、靴下にミント工場長の刺繍はできるかと訊いていた。
いくらミント工場長を愛していても、社長も専務も、刺繍はできないらしかった。

ありがとう真白い蝶を吸い込んでわたしはいつか木星に住む

さようなら真白い蝶を吸い込んでわたしはいつか木星に住む

こんにちは真白い蝶を吸い込んでわたしはいつか木星に住む

きっかり五分間考えた後、綿井さんは 「さようなら真白い蝶を吸い込んでわたしはいつか木星に住む」を選んだ。
その間、綿井さんは、紅茶茶碗いっぱいのダージリンティーを飲み干していた。

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