綿井さんは、短歌をつくるのが好きだった。
親友衣笠と天秤にかけて、ひょっとしたら短歌を取るほど、短歌を気に入っている。
そんなことを親友衣笠に打ち明けたら、寝ている間に部屋の壁をすべて、真っ赤に塗り込められてしまうかもしれない。
親友衣笠はむかしからペンキを上手にむらなく塗られたし(近所の人が犬小屋のペンキ塗りを頼みに来るほどだった)、 真っ赤な部屋はきっと頭がぐらぐらしてしまうだろう。
それでもやっぱり、綿井さんは短歌が好きだった。
相変わらず、初句は忘れたままだったけれど。

初句を忘れた綿井さん/第三話

スポーツジムのプールで平泳ぎをしている時と同じ速度で、綿井さんは郵便局へと歩いている。
綿井さんは、自分の足音を聴きながら歩くのが好きだった。
だから、なるべく踵が硬い素材でできている靴を買うようにしている。
郵便局のある通りへ抜ける、この石畳の遊歩道は綿井さんのお気に入りだった。
しまった、飴玉を持ってくればよかった。
そうしたら、もっとご機嫌だったのに。

歴史好きの親友衣笠のために、綿井さんは毎週、大河ドラマを録画してあげている。
一昨年から始めた「親切」だった。
親友衣笠は自分よりも忙しい。
それが、綿井さんの「親切」の拠りどころだった。
録画しておいたDVDは、毎月の最終週に郵送することにしている。
親友衣笠は、遠くに住んでいた。

会社のお昼休みの時間に来たのだが、郵便局は混んでいた。
茶色の合成革のソファーに座りながら、綿井さんは考えていた。
「尊敬する人は?」と問われたら、「中岡慎太郎」と答えよう、と。
本当に尊敬しているかどうかは、綿井さんにとって問題ではない。
幕末志士が好きという人は情熱的で正義感があると思われる、と信じているからだ。
ただし、これまでの人生で、誰からも「尊敬する人は?」と問われたことはなかった。
重要なのは、用意しておくことだ、と綿井さんは心の中で呟いた。

お昼休みが明けるギリギリの時刻に、綿井さんは会社へ帰ってきた。
途中、文房具店に寄って、B5版の原稿用紙を買ってきた。
来月から短歌結社に入ろうと思っている。
ありがとう」 「さようなら」 「こんにちは」ばかりの短歌でいいのだろうか、 と不安になるが、それでも綿井さんには、他に初句が思い付かないのだった。

ありがとうランドセルから滑り出た蔓植物と握手をしよう

さようならランドセルから滑り出た蔓植物と握手をしよう

こんにちはランドセルから滑り出た蔓植物と握手をしよう

今日もまた、きっかり五分間考えた後、綿井さんは 「こんにちはランドセルから滑り出た蔓植物と握手をしよう」を選んだ。
うちに帰ったら、この短歌を原稿用紙の一行目に書くつもりだ。

>>



    第一話
    第二話
    第三話

    …back


© Umi Sato All Rights Reserved.